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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第2章 国内石油産業の中の第1節 近代石油産業の誕生のページです。

  1. 日本の石油産業の発祥
  2. 灯油市場の激しい競争

1. 日本の石油産業の発祥

昔から、現在の新潟県にあたる越後の国で、「草生水(くそうず)」と呼ばれる石油が採取されていたと伝えられている。この石油は、江戸時代には灯火用や薬用として一部で使用されていたが、広く商品として取り扱われるようになったのは明治時代になってからである。

1859年の開国により、西洋から輸入された石油ランプは、1877年ごろには全国に普及した。これに伴い、石油ランプ用の灯油の輸入が急増し、一方、わずかではあるが灯油の国内生産も始められた(表 2-1-1 )。

当時の灯油輸入は、ほとんど米国から、木箱入り(5ガロン缶2缶入り)の荷姿で横浜や神戸に入荷した。横浜では1887年ごろまでに外国商館-引取商-問屋-小売商-消費者という販売ルートが形成された。各地での灯油の売買は、油問屋または輸入物資の問屋等、資力に富む商人によって行われた。灯油の小売りは、店頭販売のほか、荷車に積んで街中を流し売りする行商(引売り)により行われた。

灯油の商品価値が高まるにつれて、新潟を中心とする日本海側では、国産原油を対象とする石油採掘業、石油精製業が活況を呈した。しかし、これらの多くは、手掘りによる零細業者であったため、そのほとんどは没落していった。

表 2-1-1 灯油の国内生産と輸入の推移
国内生産量(kL) 輸入量(kL)
1868年   121
1872年   1,691
1877年 1,821 10,151
1882年 3,693 78,291
1887年 5,455 79,717

こうした中で、資本蓄積と油田開発技術の革新に裏付けられた石油企業として、1888年、新潟県刈羽(かりわ)郡石地(いしぢ)に「有限責任日本石油会社」が設立された。この日本石油の創立および同社の尼瀬(あまぜ)海底油田(新潟県)における機械掘りの成功(1891年)により、近代産業としての日本の石油産業は第一歩を歩み出した。

また、1893年には新潟県長岡に宝田(ほうでん)石油株式会社が設立され、石油の開発に従事したが、日本石油と宝田石油の両社(以下日・宝両社と略す)は、明治時代における日本の石油採掘・石油精製部門を二分する勢力となった。

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2. 灯油市場の激しい競争

1890年代の後半から、米国のスタンダード石油(ニューヨーク)と英国のサミュエル商会(後のロイヤル・ダッチ/シェル)という二つの外国石油会社により、日本市場において灯油の輸入合戦が活発となった。

スタンダード石油は1893年、横浜に日本支店を開設し注1)、市場の主権を握るに至ったが、さらに1900年には、日本国内の原油採掘・精製のため、子会社のインターナショナル石油(株)を設立し、新潟県直江津(現上越市)に製油所を建設した。

サミュエル商会の支店は、1900年に石油部門を分離し、ライジングサン石油(株)として独立させた。同社は1909年に福岡県西戸崎(さいとざき)に輸入原油(主にボルネオ原油)処理を目的とする製油所を建設した。

こうして国内の石油市場の競争が拡大していったが、新潟県の尼瀬海底油田の開発に成功した日本石油は、1890年に尼瀬製油所を建設し、さらに1899年には柏崎製油所を建設して、石油製品供給力を拡大した。

一方、宝田石油は、採掘業者や製油業者の吸収合併によって企業力を押し広げていった。こうして日・宝両社は、スタンンダードとライジングサンの2大外国石油会社と並んで国内石油市場を形成した。

その後、1908年には、スタンダードが大幅に灯油を値下げし、ライジングサン、日・宝両社もこれに追随して激しい販売合戦が展開された。1910年に内外の石油4社間で、国内灯油販売量(年間約38万kL)を外国石油2社が65%、国内石油2社が35%に分割する内容の「4社協定」が成立したが、激しい販売競争は、その後も継続した。しかし、第一次世界大戦の勃発により、外国灯油の輸入が縮小して、漸く小康状態を保つようになった。

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[注]
注1)モービル石油編「100年をありがとう モービル石油の歴史」による。なお、阿部聖「近代日本石油産業の生成・発展と浅野総一郎」では、横浜貿易新聞(1899.9.27付け)掲載の登記広告を根拠に、1894年3月に日本支店が開設されたと記述している。


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