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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第2章 国内石油産業の中の第3節 戦時統制時代のページです。

  1. 石油業法の制定
  2. 国内石油カルテルの結成
  3. 戦時体制下の石油政策
  4. 太平洋戦争と我が国石油産業

1. 石油業法の制定

1931年の満州事変をきっかけとして、日中戦争(1937年~)、太平洋戦争(1941~45年)へと続く、戦時統制の時代が始まった。

1933年、商工省を軸とする「液体燃料問題に関する関係各省協議会」は、以下を要点とする「石油国策実施要綱」を作成し閣議に報告した。

  1. 石油の民間保有(製油業者、輸入業者に輸入量の半年分を保有させる)
  2. 石油業の振興(石油の輸入業、製油業の許可制等)
  3. 石油資源の確保開発(試掘奨励制)
  4. 代用燃料工業の振興(アルコール製造等)

このa.とb.を骨子として1934年「石油業法」が制定、施行された。

そのねらいは、「第一に、我が国の石油市場を支配している外国石油資本を調整して、製油所の操業率が2分の1という不経済を好転させるとともに、石油精製業の乱立を抑えて、製品輸入から原油輸入(国内精製主義)に転換するため、製油業を統制確立すること。第二に、一朝有事の際、海外からの石油輸入の困難に対処して石油の常時保有制度を設けること」(商工省見解)であった。

同法に基づく販売割当は、国内各社に有利に行われ、外国石油2社の不満を呼んだ。また貯油義務についても、国内各社は達成したが、外国石油2社は不履行に終わった。

一方、石油業法施行後は、会社の設立、製油所の新設が困難になるとの見方から、1933年に東洋商工(株)(興亜石油の前身)、東邦石油(株)、丸善石油(株)(現コスモ石油の前身)、1934年に愛国石油合資会社が設立され、同法施行時、製油業者は個人を含め53業者が許可され、輸入業者は16業者が許可された。

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2. 国内石油カルテルの結成

石油業法施行以来、業界の自主統制も表 2-3-1に示すように拡大、強化された。

表 2-3-1 石油をめぐる自主統制の動き
発足年月 名称 加盟会社
1934年7月 鉱油精製業連合会 国内20業者
1934年9月 国産揮発油連合会 日石、小倉、三石、早山、愛国
1935年10月 アスファルト連合会 日石等国内9社
1936年3月 石油連合(株) 日石、小倉、三石、早山、愛国、日ソ、三商
1936年7月 灯油連合会 日石、小倉、三石、早山、愛国
1937年1月 パラステ連合会  
1938年2月 重油連合会 日石など12社
出所:日本石油編「日本石油百年史」

ガソリンについては、1934年石油業法に基づく販売数量の割当による国内市場統制の趣旨を徹底するため、国産揮発油連合会が組織され、その後石油連合(株)に受け継がれた。各石油製品の銘柄も1937年以降「富士桜印」に統一され、市場はほぼ統制された。

その他の石油製品も、それぞれカルテルが結成され、製品市況も回復、安定し、国内石油各社の業績は改善された。

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3. 戦時体制下の石油政策

原油輸入・消費規制の実施

満州事変から日中戦争(1937年)へと戦争が拡大するにつれ、軍需工業用、軍事用の石油需要も増大した。

1936年、海軍の要請による各省協議会で石油の自給自足体制促進のための「燃料政策実施要綱」が決定され、翌1937年に燃料局(商工省の外局)が設置された。また日中戦争勃発直後、戦時体制推進の中核として設置された企画院は、1938年から物資動員計画を作成して重要物資の需給調整を実施し、燃料局も同計画に基づき活動した。

なお、燃料局は、石油の大量買付けと備蓄を行うため、1937年末、石油関係18社の出資で協同企業(株)を設立した。同社は、翌1938年に石油71万kLを輸入し、1939年にはこれを陸軍に譲渡し、1940年に目的を達成し解散した。

石油は生産、輸入等の統制とともに、消費も統制された。1937年末に第一次消費規制が実施され、事業者の自発的節約と経営合理化により約1割の石油節約を目指した。

翌1938年、物資動員計画による消費規制も強化され「揮発油及重油販売取締規則」に基づき、切符制による配給が実施された(第二次消費規制)。この一環として、自動車用等のガソリンへのアルコール混入が実施された。

1941年、米国の対日石油禁輸を機に第三次消費規制が実施され、営業用・自家用乗用車、バス等のガソリン消費が禁止された。このため、一般の自動車は一斉にガソリン以外の代用燃料(石炭、木炭、天然ガス等)を使用した自動車(代燃車)となった。また「揮発油及重油販売取締規則」は「石油販売取締規則」に改められ、灯油、軽油にも切符制が採用された。

第二次消費規制以降の石油製品配給業務は、石油配給統制規則に基づいて、官庁の配給計画に従い、民間配給機関(石油共販会社、後に石油配給統制会社に改組)が実務を担当するかたちで実施されていたが、1943年の石油専売法制定により、国家管理に一元化された。

石油採掘部門・精製部門の統合

国産原油の生産は1915年をピークとして減少しつつあったが、政府は、国防上の必要性を踏まえて1938年に石油資源開発法を制定し、1941年には、帝国石油株式会社法に基づく特殊法人として帝国石油(株)を国の半額出資で設立し、国内各社の石油採掘部門を統一した。それまで石油採掘部門をもっていた日本石油は、これを帝国石油に譲渡し、政府に次ぐ大株主となった。

一方、石油精製部門については、戦時統制が強まる中、原油の入手が困難になってきたため石油精製各社は合同する方向へ向かい、1941年に日本石油と小倉石油が合併して新しい日本石油となったのをはじめ、各社の合同が進んだ。

この結果、精製会社は日本石油、日本鉱業、昭和石油、丸善石油、大協石油、東亜燃料工業、興亜石油、三菱石油の大手8社に統合された。

こうして、戦時下の石油産業は販売、採掘、精製の各部門で企業の統合が行われ、政府の統制下におかれることとなった。

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4. 太平洋戦争と我が国石油産業

日本は、国内では確保困難な戦略物資である石油が、1941年に米国、英国、オランダにより全面禁輸されたのを契機に、同年12月、太平洋戦争に踏み切った。

開戦直後、民間石油関係者で編成された石油部隊は、戦闘部隊とともに英領ボルネオに上陸し、ルトン製油所、セリア油田などを占領して復旧に当たり、1942年3月には内地へ原油を初輸送した。

中部スマトラのミナス油田は、カルテックスが準備作業していたものを帝国石油の開発部隊が引き継いで1944年に開発に成功し、戦後インドネシア最大の油田となった。

これら南方原油の内地還送は、1942年度、1943年度は計画以上であったが、その後は連合軍の反撃によりタンカーを大量に喪失し、還送原油は激減していった。

また、国内の製油所については1944年以降、米軍機の空襲が激化したため、軍需省の指導により疎開、移設が行われ、各製油所の処理能力は大幅に低下した。さらに、1945年には米軍機による空襲を受け、終戦までに太平洋岸17製油所中、15製油所に被害があり、日本の精製能力の3分の2が失われた(表 2-3-2 )。

表 2-3-2 液体燃料工場の空襲被害状況
(単位:千kL/年)
  原油および原料油 人造石油 アルコール
処理能力 工場数 製造能力 工場数 製造能力 工場数
1944年末現在 3,560 22 90 8 135 18
空襲による被害 1,170 13 55 5 44 8
疎開による機能低下 1,100 9
整理による能力低下 70 3
終戦時 1,220 8 35 3 91 10
出所:日本石油編「調査旬報」第1巻第4号


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