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石油産業の歴史 第2章 第5節 高度成長期と石油業法体制

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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第2章 国内石油産業の中の第5節 高度成長期と石油業法体制のページです。

  1. 外貨割当制度と貿易自由化計画
  2. 石油業法の制定
  3. 第一次標準価格の設定
  4. 産業構造調査会の報告書
  5. アラビア石油(株)の成功と海外石油開発
  6. コンビナート製油所の設立
  7. 共同石油(株)の設立
  8. 大気汚染防止対策と重油の低硫黄化、ガソリンの無鉛化

1. 外貨割当制度と貿易自由化計画

外貨割当制度

1950年の太平洋岸製油所の再開当時、輸入決済用の外貨が限られていたため、石油の輸入は他の物資と同様に、輸入貿易管理令による「外貨割当制度」の下に行われており、これが石油産業に対する基本的な規制となっていた。

石油輸入用の外貨は、原油輸入に優先的に割り当てられ、外貨節約の立場からFOB価格の高いガソリン、灯油など白油の輸入は抑制され、消費地精製体制を補強した。また、石油製品の油種別国内需給は重油輸入量で調整する方針が採られた。

石油貿易の自由化

日本経済は低廉な石油エネルギーを土台として、世界一の高度成長を遂げ、その結果、日本は、自由貿易を基調とする国際経済社会の要請に応えて、貿易の自由化と為替管理の廃止を迫られることとなった。そのため、急速に貿易の自由化が進められ、1962年10月には自由化率は90%にまで高められた。これに伴い、同月から原油輸入の自由化が行われ、続いてLPガス、ガソリン、灯油などの軽質石油製品も自由化された。これをもって、軽油と重油を除くすべての石油製品の輸入が自由化されることとなった。

その後、1964年度上期から軽油は自動承認制に、重油は関税割当(Tariff Quota:TQ)制に移行した。関税割当制とは、輸入関税を一次税率と二次税率の二本立てとし、関税割当を受けた数量については低率の一次税率を適用し、割当数量を超える輸入については、高率の二次税率を適用する制度である。

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2. 石油業法の制定

この貿易自由化は、政府としては、外貨割当を通じた原油や石油製品の輸入が規制できなくなることを意味する一方、必要な原油の90%以上を海外からの輸入に依存する日本の石油精製業にとっては、消費地精製方式の存立に関わる重大問題であった。

そこで通産省は、1961年にエネルギー懇談会を設け、自由化後の石油政策を検討した。その結果、石油エネルギーの重要性に鑑み、外貨割当制度に代わる何らかの法規制が必要との結論に至った。

こうして1962年3月に石油業法案が国会に上程され、同年5月に可決成立、7月に施行された。

この石油業法は、メジャーズ等に対処するとともに、貿易自由化に際しての石油業界の秩序維持も主要目的としており、次の柱からなっている。

  1. 石油供給計画の策定
  2. 石油精製業および特定設備の許可制
  3. 石油輸入業および販売業の届出制
  4. 生産および輸入計画の届出制
  5. 石油製品の販売価格の標準額の設定(必要時)
  6. 石油審議会の設置

参考までに、石油業法施行後の石油精製業の主要な精製設備(特定設備)である常圧蒸留設備の増設申請と許可状況について表 2-5-1に示す。

表 2-5-1 常圧蒸留設備増設の許可状況
(単位:バレル/日、%)
年度 申請 許可 許可率
1962 437,500 437,500 100
1963 1,001,150 421,150 42
1964 1,001,150 155,000 15
1965 1,228,000 400,000 33
1966 0 0
1967 1,976,260 705,260 36
1968 1,985,560 500,000 25
1969 1,993,560 630,560 32
1970 2,618,000 733,000 28
1971 2,350,000 870,000 37
1972 0 0
1973 2,269,500 1,133,000 50
出所:石油連盟「石油業界の推移」「石油資料月報」「石油産業の現状」

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3. 第一次標準価格の設定

石油業法における石油精製業の特定設備の許可条件の一つに、石油元売各社の販売シェアがあったため、石油元売各社は、石油業法施行前にいっせいに販売シェアの拡大を図り、販売競争は激化し、市況は落ち込んだ。この結果、石油各社の経営内容は著しく悪化し、当時、設備投資が過大であった石油会社の中には、経営破綻が表面化するものもでてきた。

こうした事態に対処するため、通産省は、石油業法第15条による石油製品の販売価格の標準額設定を1962年11月から実施することとした。石油業法による初の標準額は、ガソリンが10,130円/kL、C重油が6,800円/kLであった。

この標準額設定後、原油価格の低下、タンカーの大型化による運賃コスト減少、石油需要の増大と精製設備稼働率の向上等から、業績は徐々に回復に向かい、標準額は1966年2月に撤廃された。

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4. 産業構造調査会の報告書

1962年5月、石油業法の公布と同時に、通産省の付属機関である産業構造調査会に総合エネルギー部会が設置された。同部会は、1963年12月に日本最初の体系的な総合エネルギー政策と、その中での石油政策の位置付けを明らかにする報告書を提出した。

この報告書は、a.エネルギー安全保障策の推進、b.わが国精製業の自主性の確保、c.石油製品の低廉性の確保、との方向性を示した。

同部会が改組された総合エネルギー調査会は、1967年に総合エネルギー政策について、a.海外自主開発原油を1985年度に所要量の30%供給、b.原油の輸入価格引下げと購入の自主性回復、c.大気汚染対策として重油の低硫黄化、を答申したが、石油産業への国家意思の介入を求める意向をもっていた。

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5. アラビア石油(株)の成功と海外石油開発

石油業法を中心とする政策は、精製部門に焦点を合わせたもので、いわゆる消費地精製方式を踏まえたものであったが、前述のような新たな石油政策の動きは、日本の石油産業を、再び一貫操業体制へと方向付けるものであった。

これは、海外石油資源開発のためにつくられたアラビア石油(株)が1960年1月に、サウジアラビアとクウェートの間にある中立地帯(Neutral Zone)の沖合で、カフジ(Khafji)油田を掘り当てたことが契機となっている。このカフジ原油を日本国内へ引き取ることによって、ごく一部とはいえ日本の石油産業が一貫操業体制をとることができる、と考えられたのであった。

ところで、アラビア石油は財界主導によるプロジェクトであり、精製・元売各社は参画していなかった。そのうえ、カフジ原油は硫黄含有量が多いため、精製各社は公害・環境問題との関連から、その引取りに難色を示した。

そこで通産省は、カフジ原油の引取りを精製各社に一定比率で割り当てる、いわゆる「プロラタ方式」を行政指導により実施し、この方式を1973年3月まで継続した。

また、海外における原油自主開発の推進母体として、1967年、石油開発公団が設立され、種々の助成策を通じて国内外にプロジェクトを持つ石油開発会社が次々に設立されて、1972年には約50社となった。

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6. コンビナート製油所の設立

1960年の第二次池田内閣の所得倍増計画以降、日本経済は高度成長時代を迎えたが、なかでも臨海工業地帯を中心とする重化学工業は目ざましい発展を遂げた。また、この時期は、新産業である石油化学工業の勃興期にも当たることから、重油およびナフサの需要は他油種の需要を上回る急激な伸びを示した。

こうした状況の下に、ナフサと重油を重点的に生産し、その地域のコンビナートへパイプラインで供給する、いわゆる「コンビナート・リファイナリー」(以下、コンビナート製油所と記す)が1960年代に相次いで設立された。九州石油・大分、東邦石油・尾鷲(おわせ)、西部石油・山口、極東石油工業・千葉、関西石油・堺、富士石油・袖ヶ浦、日本海石油・富山、鹿島石油・鹿島、東北石油・仙台の9製油所がそれであった。

コンビナート製油所は、石油化学、電力、鉄鋼等のナフサと重油の大口需要家や商社の主導により設立され、通産省も精製設備許可基準において、石油化学および電力とのコンビナート製油所を優先させる方針を打ち出した。

コンビナート製油所は、ガソリン、軽油など石油精製業本来の主製品ではなく、割安な重油とナフサを目的生産物としていた上に、公害対策で脱硫設備が義務付けられたことによるコストアップ等により、次第に経営が悪化していった。

そのため、1975年8月に通産省の要請で、「コンビナート・リファイナリー懇談会」が発足し、同懇談会は、1975年12月の報告書で、需要家・元売会社を含めた関係者間の協調関係の必要性等を指摘し、製品納入価格の是正、支払い条件の適正化等が必要であるとした。

また、既存石油企業との合体や、既存元売会社グループへの参加の必要性等が指摘され、この趣旨に沿って、1976年8月、日本海石油は、新たに日本石油グループの精製会社として系列化され、さらに、関西石油(株)は1979年10月、親会社である丸善石油に吸収合併された。

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7. 共同石油(株)の設立

1962年の石油業法制定当時、石油業界は過当競争状態にあり、経営基盤の弱い中小石油会社(その多くは後発企業)では、経営悪化が著しくなり、石油の安定供給が阻害される恐れもでてきた。

このため、中小石油会社の育成対策が必要であると考えられ、当時、中小規模の石油会社であった日本鉱業(株)、アジア石油(株)、東亜石油(株)の3社は、1965年に共同石油(株)を設立し、親会社3社は輸入・精製を専業とし、共同石油が石油製品販売を担当するという共同石油グループを形成した。

これらの各社は、外国石油会社の資本が入っていない、いわゆる「民族系石油会社」に属しており、共同石油グループの形成は「国内市場の一定割合を国の影響下におく」という当時の国策に沿った民族系企業育成策の一つとされた。

その後、富士石油(株)や鹿島石油(株)が同グループへ参加し、また、アジア共石(株)や東亜共石(株)が設立されたが、これらはいずれも精製会社であった。

政府は、共同石油グループ向けの日本開発銀行の融資を、1965年以降継続して実施し、また設備許可においても優先的に取り扱うなど、同グループの育成を図った。

このため、同グループの精製能力は急速に拡大していったが、販売力は必ずしもこれと比例しては増大せず、精製能力と販売力の不均衡、いわゆる「精販ギャップ」を生じ、石油需給・価格への不安定要因となっていった。

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8. 大気汚染防止対策と重油の低硫黄化、ガソリンの無鉛化

1967年に「公害対策基本法」、1968年に「大気汚染防止法」が施行されて燃料の低硫黄化が迫られ、自動車排ガスが規制対象に加えられた。これに対応して1967年、出光興産(株)が世界に先がけて重油直接脱硫装置を建設し、その後、数社がこれを採用した。1968年から重油間接脱硫装置の建設も始まり、我が国の重油脱硫能力は急速に拡大していった(表 2-5-2)。

また、1970年に発生した東京・牛込柳町の鉛問題を契機にガソリンの無鉛化が進められた。

表 2-5-2 重油脱硫能力の推移
(単位:バレル/日)
年度 直接脱硫 間接脱硫 合計
1968 40,000 48,000 88,000
1969 40,000 204,500 244,500
1970 112,760 256,000 368,760
1971 112,760 356,500 469,260
1972 194,000 529,500 723,500
1973 194,000 667,500 861,500
1974 239,000 724,500 963,500
出所:「石油統計年報」


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