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石油産業の歴史 第2章 第6節 石油危機(オイルショック)と石油高価格の時代

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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第2章 国内石油産業の中の第6節 石油危機(オイルショック)と石油高価格の時代のページです。

  1. 第一次石油危機の到来
  2. 石油緊急対策(第一次規制)の実施
  3. 石油二法の制定と施行
  4. 第二次規制の実施
  5. 価格凍結指導と第二次標準価格の設定
  6. エネルギー高価格時代の到来
  7. 第二次石油危機とイラン・イラク戦争

1. 第一次石油危機の到来

1973年10月の第四次中東戦争に端を発した中東産油諸国の原油生産削減と一部非友好国への禁輸措置、これを背景とする原油公示価格の大幅引上げ等、一連の動きは、世界各国に、いわゆるオイルショック(第一次石油危機)としてきわめて大きな衝撃を与えた。

特に、日本は、石油の99%を海外から輸入しており、またその8割近くを中東に依存していたため、経済への深刻な影響がもたらされた。

当時の日本は、景気が過熱状態でインフレーションが進行中であった。こうした時期に原油価格が高騰したことが、石油供給遮断による物不足への不安心理の増幅とも相まって、その後の物価上昇と日本経済の混乱を一層大きくした。

このような状況の下に、政府は次に述べる緊急対策を実施することとなった。

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2. 石油緊急対策(第一次規制)の実施

政府は、日本の経済社会の混乱を未然に防止するとともに、国民生活への影響を最小限にとどめるため、1973年11月、内閣総理大臣を本部長とする緊急石油対策推進本部を設置するとともに、「石油緊急対策要綱」を閣議決定した。その要旨は次のとおりである。

  1. 消費節約運動の展開
  2. 石油・電力の10%使用節約
  3. 便乗値上げ、不当利得の取締りと公共施設等への必要量確保
  4. 国民経済および国民生活安定確保のため必要な緊急立法の提案
  5. 総需要抑制策と物価対策の強化
  6. エネルギー供給確保のための努力

次いで政府は、上記閣議決定を基に強力な行政指導を開始した。その内容は、産業用大口需要家(指定11業種)の石油消費抑制、大口電力の使用規制、マイカー使用の自粛、営業用交通機関の石油消費節約、バー・キャバレー・百貨店等の営業時間の短縮、深夜テレビ・広告塔等の時間短縮などの幅広いものであった。

このうち、産業用石油消費抑制については、特に重点がおかれ、需要者の石油消費量の10%節減を目標とする強力な指導が翌12月から実施された。

これと並行して資源エネルギー庁は、「家庭用灯油の安定供給を図るための緊急対策について」という通達を出し、家庭用灯油の小売価格(中味価格)を380円/18リットル缶(店頭)に抑えるよう行政指導を開始した。

また資源エネルギー庁および中小企業庁では、中小企業、農林漁業、病院等の公共施設等を対象とした石油製品あっせん相談所を開設した。

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3. 石油二法の制定と施行

石油二法の成立

前記石油緊急対策要綱に基づく緊急立法として石油需給適正化法および国民生活安定緊急措置法(石油二法)が1973年12月の通常国会の冒頭に上程され、同月可決成立、公布施行された。

この石油二法は、ともに緊急避難的な色彩が強いが、時限立法ではなく恒久立法として制定されており、緊急事態が発生した場合には直ちに発動できるものとして2017年9月現在、なお有効な法律である。

石油需給適正化法

本法は、日本への石油の大幅な供給不足が生ずる場合に、石油の適正な供給と石油使用を節約する措置を講ずることにより、石油の需給を適正化することを目的としている。石油業法に基づく石油供給計画が平常時における需要・供給のバランス維持を目的としているのに対し、本法は国際的に不測な事態の発生等による緊急時対策が目的である。

本法は、政府が閣議決定のうえ、本法に定める措置をとる必要のあることを告示することにより発動される。これを「緊急事態宣言」といい、本法施行と同時に告示された。

本法発動時、通産大臣には、次のような権限が与えられている。

  1. 精製業者等への石油の保有や石油売り渡しの指示
  2. 精製業者等からの報告徴収および立ち入り検査
  3. 消費者に対する石油使用制限
  4. ガソリンスタンド業者に対するガソリン販売量の制限等

そして、これらの指示に従わない場合には、罰則の適用や、その旨の公表による社会的制裁の措置がとられることとなっている。さらに、これらの方法によっても緊急事態の克服が困難となった場合には、政令で「石油の割当または配給等」を定めることも可能になっているが、第一次石油危機に際しては実施されるまでに至らなかった。

国民生活安定緊急措置法

本法は、物価高騰その他の日本経済の異常な事態に対処し、国民生活の安定と国民経済の円滑な運営を確保するため、生活関連物資等について、価格の安定および需給の調整に関する緊急措置を定めたもので、物価安定立法としての基本的性格を有するものである。

物価が高騰し、あるいは高騰する恐れのある場合、政令で、その生活関連物資を指定し、指定物資の取引の標準となる品目(標準品目)について、遅滞なく標準価格が定められることとなっている。

1974年1月、本法施行令が公布されると、石油については灯油、LPガスが指定物資として指定されると同時に、標準価格(小売販売価格)が設定された。この標準価格が守られないときは、政府は標準価格以下で販売することを指示することができ、その指示が守られないときには、その旨を公表することが可能となっている。

このほか本法では、特定標準価格の設定や、供給の物量的不足に対処するための生産、輸入、保管等に関する指示や、当該物資の著しい供給不足の場合の配給や割当などが規定されている。

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4. 第二次規制の実施

国民生活安定緊急対策本部(1973年12月、緊急石油対策推進本部を改組)は、緊急事態宣言(12月)と同時に、「当面の緊急対策について」を決定し、翌年1月以降の石油、電力の消費節減率を前年同期比20%減とすることとしていた。しかしその後、産油諸国の生産削減率の緩和等、事態の若干の好転により、当分の間、10%の節減率をそのまま継続することとした。

翌1974年1月、同本部は「当面の石油および電力の使用節減について」を決定し、石油、電力の使用節減率を15%とする、いわゆる第二次規制が1月後半から実施された。

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5. 価格凍結指導と第二次標準価格の設定

「狂乱物価」の鎮静化を図るため、政府は、1974年初めからの原油到着価格急騰にもかかわらず、石油製品の元売仕切価格を1973年末の水準に凍結する行政措置をとった。

1974年3月に至って、閣議了解のもとに、元売仕切価格の前年12月比で燃料油平均8,946円/kLの値上を認める行政指導が行われた。この行政指導価格は、値上げ時期、値上げ額とも当時の石油企業の実態コストをカバーするには程遠いもので、一方的に石油企業に「逆ザヤ」を強いたものとされている。

この行政指導価格は、石油危機が鎮静化した1974年8月に解除された。しかし、オイルショック後の経済活動の極度の停滞下にあって、石油需要は大きく減退し、逆ザヤの是正は困難をきわめた。さらに、一時安定化したかに見えた原油価格が、翌1975年10月に、またもOPECにより10%値上げされることとなった。

こうした事態に直面して、政府は、石油業界が自力で逆ザヤを是正することは困難と判断し、同年12月に石油業法に基づき石油製品の標準額を設定、実施した。標準額は、1kL当たりガソリンが53,700円、ナフサが29,700円、C重油(硫黄分3%)が29,700円、であった。これにより石油製品市況はかなり改善され、1976年5月に本標準額は撤廃された。

なお、標準額設定により定着した、他の燃料油に比べてガソリン価格が極端に高いという、いわゆる「ガソリン独歩高」の石油製品価格体系は、過度のガソリン販売競争の誘因となるなど様々な影響を石油業界に及ぼしつつ、1996年春まで続いた。

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6. エネルギー高価格時代の到来

第一次石油危機は、1973年12月、中東産油諸国が原油の生産削減を15%に緩和し、さらに翌1974年3月には生産削減の実施維持を各国の判断に委ねるとともに、対米禁輸を解除したことで、一応の終結をみた。

第一次石油危機は、石油供給の削減という直接的なインパクトを石油消費国に与えたが、その期間も短く、直接的な影響が深刻化するには至らなかった。

日本では、1972年度から既に実施されていた60日備蓄計画に基づいて、石油各社が備蓄量増大に努めていたが、第一次石油危機に際しては、業界を挙げて大量の備蓄放出や供給の円滑化に努め、また既契約原油の入着や新規スポット原油の入手に極力努力したこともあって、供給停止等の最悪の事態を回避することができた。

その後、石油需給は急速に緩和していった。また緊急時に大量放出した石油会社の在庫量も、1974年6月には第一次石油危機発生時の水準を上回るに至った。このような石油需給状況により、政府は、同年8月末に石油需給適正化法に基づく緊急事態宣言を解除し、同法に基づく諸々の需給対策に終止符を打った。

同時に政府は、内閣に「資源とエネルギーを大切にする運動本部」を設置し、関係行政機関相互の事務の緊密な連絡を図るとともに、民間における省資源、省エネルギーのための諸活動を支援すること等の所要の対策を、今後長期的展望に立って推進していくこととした。

こうして、原油供給の量的問題については一応の解決をみたが、第一次石油危機による原油価格の高騰は、その後も定着し、さらに小幅ながら数次にわたり引き上げられた。原油価格の高騰は、石炭、天然ガス、ウラン等のその他エネルギー価格にも波及し、全世界的なエネルギー高価格時代を迎えた。

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7. 第二次石油危機とイラン・イラク戦争

第二次石油危機の発生

1978年10月の石油産業労働者によるストライキに端を発したイランの政変により、同国の原油生産と輸出が大幅に減少した。特に12月以降、約450万バレル/日であった輸出が全面的に停止され、世界の石油需給に深刻な影響を与えることになった。これが第二次石油危機である。

その後、パーレビ国王の追放とバザルガン暫定革命政府の成立に伴い、1979年3月には輸出も再開され、生産もいったん400万バレル/日に達した。しかし、同年11月、テヘランの米国大使館占拠に伴う対米原油輸出停止と、これに対抗したイランへの経済制裁問題のため、原油生産は一層減少し、1980年央には150万バレル/日程度となった。

イランの減産にもかかわらず、他のOPEC加盟国、非OPEC諸国の増産と世界的な石油需要の減少により、国際石油需給がようやく安定化しつつあった1980年9月にイラン・イラク戦争が勃発し、石油需給は再び混乱することとなった。今度は、イランの輸出が減少したばかりでなく、当時350万バレル/日であったイラクの産油量が一気に50万バレル/日に落ち込んでしまった。

しかしながら、第二次石油危機とイラン・イラク戦争の間、サウジアラビア、メキシコ、北海等が増産したことに加えて、石油価格の高騰による消費節減、景気下降、石炭等への燃料転換により石油需要が大幅に減少したため、石油需給の混乱は比較的軽微で済んだ。

原油価格の高騰

この間、1978年12月のOPECアブダビ会議決議による値上げが実施されて以来、原油価格は数次にわたり引き上げられ、1980年12月のOPECバリ島会議では41ドル/バレルの上限価格が出現するに至った。さらに、原油の公式販売価格の上にサーチャージ(付加金)、プレミアムなどの割増しが付き、実質価格は名目価格以上に高騰した。

我が国では、原油価格に関して、他の消費国と協調して高値スポット原油の購入を自粛する等、急激な高騰を避ける措置がとられた。

イラン革命以後、サウジアラビアは原油価格に関し、一貫して穏健な立場をとったが、他の産油国は1979年2月以降、サウジアラビアを上回る値上げを行った結果、サウジアラビアと他の産油国との間に原油価格の格差がつき、同国で操業するアラムコのパートナー(エクソン、テキサコ、ソーカル、モービル)を通じて原油を購入している石油会社が有利となった。

この、いわゆる「アラムコ格差」は、特に1980年度下期以降に表面化し、日本においても石油企業間格差の大きな原因となった。ただし、原油価格差は1981年10月のOPEC総会による価格統一の実現により、ようやく解消することとなった。

なお、第二次石油危機によるイラン・コンソーシアムの解体を契機として、日本のメジャーズからの原油調達比率は徐々に減少し、1980年度には50%以下となった。一方、産油国との直接取引はこれに反比例して増加していった。



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