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石油産業の歴史 第1章 第2節 国際石油会社の誕生と発展

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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第1章 国際石油産業の中の第2節 国際石油会社の誕生と発展のページです。

  1. 世界市場におけるロシアの台頭
  2. スタンダードとシェルの競争
  3. ロイヤル・ダッチ/シェルグループの成立
  4. 7大メジャーズの出現
  5. 第一次世界大戦後の列強による資源獲得競争
  6. 国際石油カルテルの成立

1. 世界市場におけるロシアの台頭

ロシアの石油産業は1870年代中ごろから急速に発展し、原油生産量は1870年のわずか20万バレルから、1890年には2,900万バレルに増大した(表 1-2-1)。

ロシア灯油がオーストリア、ハンガリー、英国に初めて姿を現したのは1883年であったが、2年後には9ヵ国で、さらにその2年後には17ヵ国で米国灯油と競争するほどになった。発展の原動力となったのは、後年、ノーベル賞で名前を馳せる、スウェーデンのノーベル兄弟(Robert Nobel、Ludwig Nobel)とフランスのロスチャイルド家(Rothschilds)であった。

ノーベル兄弟は1875年、ロシアの石油地帯であるバクーに進出して製油所を建設し、続いて産油部門にも参入、ほどなく諸外国に販売設備をもつまでに成長した。この過程で、米国から削井機を導入、原油パイプラインや鉄道タンク車など輸送手段を整備、ロシア国内で重油市場を開拓、内航船ではあったが世界で最も早く鋼鉄船により中味輸送を実施(世界最初のタンカー)、同じく世界最初の連続蒸留法を企業化するなど、様々な革新を進めていった。

なお、1879年にはノーベル兄弟産油会社(The Nobel Brothers Petroleum Production Co.)が設立された。こうしてノーベル兄弟は、1888年にはロシア灯油の3分の1を生産するまでに成長していた。

表 1-2-1 主要国の原油生産量の推移(1930年以前)

一方、ロスチャイルドは、バツーム鉄道に対する融資と交換に、バクーの石油権益を獲得し、1883年にカスピアン・アンド・ブラックシー・ペトロリアム(一般にロシア語の頭文字をとってBnito:ブニトと呼ばれた)を設立した。ブニトは、多数の小規模製油業者と契約してロシア灯油の最大輸出業者となり、ヨーロッパでの販売網の整備を進めるとともに、1880年代後半には東洋市場へも進出した。

このようなロシア石油産業の著しい発展によって、ロシア灯油の世界市場シェアは、1884年の3%から1889年には22%にまで上昇した。

これに対して、米国灯油のシェアは97%から78%へと低下し、ロシア灯油は、米国灯油にとって強力なライバルとして、無視できない存在となった。

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2. スタンダードとシェルの競争

英国の貿易商マーカス・サミュエル(Marcus Samuel)は、1891年にブニトを支配するロスチャイルドとの間で、1900年を期限とするロシア灯油の独占販売契約を締結した。これは、ロシア灯油の東洋市場向け大量輸出の道をひらく画期的な出来事であった。

マーカス・サミュエルは、1897年にシェル運輸貿易会社(Shell Transport and Trading Company:以下シェルと略す)を設立して、彼の石油事業を継承させた。

こうして、1890年代には米国灯油とロシア灯油、つまりスタンダードとシェルの衝突は不可避となった。

この間、スタンダードは1880年代末ごろから、ヨーロッパ主要市場で4分の3の販売シェアを頑強に維持する代わりに、重要性を増しつつある東洋市場へのロシア灯油の進出を妨害しない、という作戦をとったといわれる。実際にも、ロシア灯油の進出は特に東洋市場でめざましかった。

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3. ロイヤル・ダッチ/シェルグループの成立

スタンダードとシェルに支配されるようになった東洋市場に、1890年代後半には強力な新勢力としてロイヤル・ダッチ(Royal Dutch、正式名は Royal Dutch Petroleum)が登場した。

1890年に設立されたオランダの石油会社ロイヤル・ダッチは、蘭印(オランダ領東インド:現インドネシア)に属するスマトラ東海岸で生産される原油を精製するため、パンカラン・ブランダンに製油所を完成させ、1892年にシンガポールやマレー半島向けの灯油の輸出を開始した。その4年後には、蘭印からアジア・大洋州(日本、中国、東インド、オーストラリア)向けの輸出量は300万バレル以上に達し、米国からの同地域向け輸出量にほぼ匹敵するに至った。

この三者は激しい販売競争を行うと同時に、提携相手の模索にも力を入れた。1901年、シェルはスタンダードとロイヤル・ダッチの双方と並行的に提携交渉を進めていたが、同年12月、スタンダードとの交渉を打ち切って、ロイヤル・ダッチとの提携について原則的に合意し、いわゆる「英蘭協定」(British-Dutch Agreement)を締結した。

この協定だけでは、シェルとロイヤル・ダッチの販売競争は収まらなかったが、1903年6月、両者にロスチャイルドが加わって、「東方でのお互いの競争をやめるために」三者合弁(出資比率は対等)のアジアチック・ペトロリアム(Asiatic Petroleum Co.)が設立された。ロスチャイルドは、ブニトによって東洋市場向けロシア灯油をシェルに供給していただけでなく、ロイヤル・ダッチにもロシア灯油を供給していた。

また、1907年にはロイヤル・ダッチとシェルの一本化が成立し、前者60%、後者40%の持ち分によって、両者の事業を共同化することになった。これにより、ロイヤル・ダッチ/シェルグループ(以下シェルと略す)が形成され、アジアチックもこの新組織に組み込まれた。

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4. 7大メジャーズの出現

このようにして、米国の石油資源に基盤をおくロックフェラーのスタンダードグループと、東南アジアの石油資源に基盤をおくシェルグループが二大勢力となったのである。

1908年、英国人ウィリアム・ノックス・ダーシー(William Knox D'Arcy)がペルシャ(現イラン)で最初の油田を発見したが、1909年には、これを母体として、後のブリティッシュ・ペトロリアム(現在のBP)の原形であるアングロ・ペルシャン石油会社(Anglo-Persian Oil Company)という、もう一つの国際石油企業が設立された。

一方、米国ではテキサス、カリフォルニアの各州で新しい油田の発見が相次ぎ、スタンダードグループ以外にも大きな石油会社が出現してきた。1901年にテキサス燃料会社(Texas Fuel Company:1903年にTexas Oil Companyに社名変更、後のテキサコ)、1907年にはガルフ石油会社(Gulf Oil Corporation)が設立された。

そして、1911年に米国のシャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act of 1890)の適用により、持株会社としてスタンダード石油グループを統轄していたニュージャージー・スタンダード石油会社(Standard Oil Company of New Jersey:後のエクソン、現在のエクソンモービル)は持株会社の地位を失い、スタンダードグループを構成していた30を超える石油会社は、独立した石油会社として、互いに競争することとなった。この中から、カリフォルニア・スタンダード石油会社(Standard Oil Company of California:後のシェブロン)やニューヨーク・スタンダード石油会社(Standard Oil Company of New York:後のモービル、現在のエクソンモービル)が発展していった。

スタンダード石油3社(ニュージャージー/カリフォルニア/ニューヨーク)に、シェル、アングロ・ペルシャン、テキサス、ガルフを加えた国際石油企業は一般に7大メジャーズ(Majors)と呼ばれた。20世紀初頭に7大メジャーズを中心とする国際石油産業の体制はほぼ整ったのである。

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5. 第一次世界大戦後の列強による資源獲得競争

1914年に始まり、1918年に終わった第一次世界大戦では、飛行機、戦車、重油専焼艦艇などが活躍し、石油が戦略的にきわめて重要な物資であることを世界的に認識させた。こうして、動力エネルギー源としての石油の価値が高まっていき、「灯油の時代」から「動力あるいはエネルギーの時代」へと移っていった。

米国の原油生産量は、1910年には2億バレルを越え、世界の60%以上を生産しており(表 1-2-1)、1921年には世界の石油貿易量の50%以上を輸出していた。しかも、その輸出量の87%は原油ではなく、石油製品であった。1920年代に入ると、米国にも石油資源の枯渇を懸念する声が高くなり、はじめて米国の大手石油会社が、製品市場だけでなく、石油資源を求めて国際的に動き出すようになった。

しかし米国の石油会社は、東半球の重要石油資源からは、ほぼ完全に締め出されていた。当時の中東の唯一の産油国ペルシャの石油利権は、英国のアングロ・ペルシャンに独占され、英国政府は第一次大戦勃発直前の1914年5月に、同社株式の過半数を獲得して立場を強化していた。

また、有望視されていたメソポタミア(現イラク)を含む、広大なオスマン・トルコ帝国の石油資源を対象として設立されたトルコ石油(Turkish Petroleum Co.)の持株比率は、1914年3月、英国、ドイツ両政府を含む関係者間協定によって、アングロ・ペルシャンが50%、シェルとドイツ国立銀行がそれぞれ25%と決まった。

その後、第一次世界大戦開戦後の1915年に英国、フランス両政府は秘密交渉を開始し、戦後の1920年4月のサンレモ協定によって、ドイツ国立銀行の持ち分25%をそのままフランス政府に与えることが決められた。これによってフランスは、大戦の戦訓に基づき石油供給源へ直接参入を果たした。サンレモ協定は、英仏石油連合の形成として世界的な反響を呼び、米国では石油業界、政界、報道機関に大きな衝撃を与えた。メソポタミアへの参入をねらう米国の石油会社と政府は、英国に対して「門戸開放」を求めて繰り返し抗議し、外交的緊張が高まった。

1922年6月、アングロ・ペルシャンがニュージャージー・スタンダード石油会社に対し、トルコ石油問題に関する代表団派遣を求めたのをきっかけに、問題は解決に向かったが、最終解決には1928年まで6年間を費やした。

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6. 国際石油カルテルの成立

アクナカリー協定の締結

第一次大戦直後にあった、ロシア革命による原油生産の混乱などを理由とする石油供給不安はごく短期間で解消し、3~4年後には、逆に供給過剰を露呈した。しかも1920年代後半、米国でオクラホマ州のセミノール、カリフォルニア州のケルトマンヒルズなど大油田の発見が相次ぎ、原油供給力は一層増大した。これに加えて米国外でも、ベネズエラ、ソ連、ペルシャなどで生産が増強された(表 1-2-1)。

石油供給過剰を背景として、ソ連石油への対応をめぐって対立していたシェルとニューヨーク・スタンダード石油会社は、1927年秋からインド、次いで英国、米国本土で激しい値引き競争を展開、その余波は我が国を含む世界主要地域に広がり、石油企業に壊滅的な打撃を与えた。

これを契機として、1928年9月、国際石油市場のビッグスリーであるニュージャージー・スタンダード石油会社、シェル、アングロ・ペルシャンは「アクナカリー協定」または「現状維持協定」と呼ばれる包括的なカルテル協定を締結した。

同協定は、全世界で生産を中止している油井の生産能力(Shut-in Production)が実際に消費される原油生産の60%に達し、過当競争が膨大な供給過剰をもたらしているとの前提に立って、米国外における各社の市場シェアを、将来とも原則として1928年当時のものに固定することを骨子としていた。これがつまり「現状維持」の原則である。

赤線協定の成立

同じころ、中東の石油資源支配の歴史が大きく進展した。すなわち、1928年7月、前述のように長期間の交渉が続いていたトルコ石油(1929年に社名をイラク石油に変更)の持株比率が決定し、米国石油会社としてニュージャージー・スタンダード石油会社とソコニー・バキューム石油会社(Socony-Vacuum Oil Company:ニューヨーク・スタンダード石油会社と潤滑油専業会社バキューム石油会社が1931年に合併して誕生)の参入が実現した。

これと同時に、主としてフランス側からの提案に基づいて、トルコ石油参加各社は、旧オスマン・トルコ帝国領土内で、実質的に石油利権の共同所有と共同操業を義務付けられた。その範囲は地図に赤線で示され、ペルシャとクウェートを除く中東の重要地帯のすべてを包含していた。このため、このときの協定は「赤線協定」と呼ばれるようになった。赤線協定は、英国、米国、フランス各国政府の承認のもとに締結され、単に国際石油会社間の協定にとどまらず、政府間協定の性格をも兼ね備えており、中東石油資源の支配構造に大きな影響を及ぼした。

石油が発見される以前のサウジアラビアも赤線協定の対象地域に含まれていたため、米国石油会社ながら同協定に参加していなかったカリフォルニア・スタンダードがここに注目し、交渉の末1933年に単独で石油利権の取得に成功した。この石油利権は、1936年にテキサス会社との共同所有になった。

このようにして、国際石油企業が相互に提携しあって、米国内を除く自由世界の主要石油資源を独占する体制が形成された。

さらに、1930年代に入ると、石油需要の拡大とその市場の国際的な発展のために、国際石油会社の再編成が実施された。すなわち、ニュージャージー・スタンダード石油会社とソコニー・バキューム石油会社が、スエズ運河から東の諸地域で共同して事業を行うため、1933年にスタンダード・バキューム石油会社(Standard-Vacuum Oil Co.:略称Stanvac)を折半出資で設立したほか、カリフォルニア・スタンダード石油会社とテキサス会社は、東半球全域で共同事業を営むために、1936年にカルテックス(Caltex、正式名はCalifornia Texas Oil Company)を設立した。

かかる状況下で、第二次世界大戦が始まったのである。この大戦は、軍需物資としての石油の重要性をさらに高める結果となり、国際経済上および国防上の観点から石油問題を単に大企業であるメジャーズのみの問題とせず、政府の外交・経済・国防政策上の問題とするに至ったのである。



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